江戸時代のリサイクル

 我が国の江戸時代の生活は、いまでいうリサイクル社会でした。ごみを減らすためにはリサイクルをするのではなく、「ものを大切に最後まで使いつくす」という考え方が、自然にリサイクル社会をうみだしていったのです。使い捨て文化と呼ばれる現代の日本に生きる私たちにとって、江戸時代のものを使いつくすという考え方は多くの見習うべき点が多いかもしれません。

修理・再生業者 

鋳かけ(いかけ)  

 金属製品の修理専門業者のことです。古い鍋や釜などの底に穴があいて使えなくなったり、燭台が折れたりした時は、鋳かけ屋が来るのを待って修理してもらっていました。今では全く見かけないが、ものが貴重だった昭和30年代頃までは、東京の住宅地でも巡回していたそうです。

    

瀬戸物の焼き接ぎ

 今は、陶磁器を割ってしまっても接着剤などを使えば、誰でも割合簡単に接着できますが、昔は修理専門の職人がいました。
 古い時代は、陶磁器類の接着に漆を使っていましたが、18世紀末の寛政年間頃に、白玉粉で接着してから加熱する焼き接ぎ方を発明した人がいて、普通の安い茶碗などこの方法で修理するようになりました。

下駄の歯入れ

 下駄の歯の部分が特に早くすり減るから、歯だけを交換できるようにした下駄があった。その下駄は、普通の下駄より歯がうすく長めにできていてい、すり減れば、歯だけを抜いて新しいのに差し替えられる。これも、専門の職人が巡回してくるのを待って注文すれば、その場で入れ直してくれた。

箍屋(たがや) 

 現在は何でもプラスチック製になってしまいましたが、3・40年前までは、木製の桶、樽などが液体を入れる容器として最も普通でした。桶や樽は、板を武の箍で円筒形に締めてありますが、箍が古くなって折れたりゆるんだりした時は、専門の職

人が新しい竹で締め直してくれました。 これも、材料と道具を持った職人が巡回していて、頼べばその場で手際よく修理していました。

鏡研ぎ

 昔の鏡は、青銅の表面に水銀メッキをして反射面を作っていたので、使っているうちに曇って見にくくなりました。女性たちはメッキをし直す職人が巡回してくるのを待って研ぎ直していました。
 鏡研ぎの作業は、まず、表面を細かい砥石で研ぎ、朴炭で磨き上げてから、水銀とすずの合金に砥の粉、焼きみょうばん、梅酢などの有機酸をまぜたものを塗って蒿でこすりつければメッキができます。最後に美濃紙で磨き上げれば、青銅の表面は新しい水銀メッキ層で覆われ、新品同様になるというわけです。

臼の目立て

 今ではとても考えられない職業ですが、昔は自分で小麦粉などを挽く人が多かったので、すり減った石臼の目を立て直すのが専門の石工がいて、とくい先を廻っていました。石臼は重くて簡単には運べないから、これこそ職人が巡回してきてくれないと、どうにもなりませんでした。

研ぎ屋

 包丁などの刃物を研ぐ職人で、わりあい最近まで残っている職業です。土地によっては、今でも巡回している人がいます。 刃物を使うプロは、刃物を研ぐのも仕事のうちだから、大工でも板前でも刃物の手入れを他人に頼むことはないでしょう。しかし、素人が刃物を研ぐと、下手すれば前よりも切れ味が悪くなることさえあるから、専門の職人に頼むのが普通でした。

回収業者

紙屑買い  

 買い取りを専門とする業者の主流は、昔も古紙回収業でした。昔の言葉では<紙屑買い>といい、現在のちり紙交換業です。
 普通は零細ではあっても自分の資本を持った商人で、不要になった帳簿などの製紙品を適当な価格で買い取り、古紙問屋は、古紙、紙屑を仕分けし、主として漉き返す業者に卸した点も今と大差ないです。
 現代の紙は、1ミリか2ミリぐらいの長さしかないパルプの繊維でできていますが、伝統的な和紙は、10ミリ以上もの長い植物繊維でできていて、しかも、ほかに 加物がなく漉き返しが容易でした。そのため、各種の古紙を集めてブレンドし、ちり紙から下級印刷用紙まで、様々な再生紙に漉き返すことができたのです。 主に古紙を買ったから紙屑買いというのだが、この業者は、実際にはほとんどあらゆる不要品を買ったようです。古金といって、不要になった金属製品、場合によっては古着、古布などを買う紙屑買いも多かったようです。昔は何を買っても転売して利益を上げられたことがわかります。

紙屑拾い

 同じ古紙を集める専門業者でも、こちらは買い入れるだけの資金を持っていないので、仕方がないから、町中をせっせと歩き廻って落ちている紙を拾い、それを古紙問屋へ持っていって、わずかな日銭をかせいでいました。こういう人でも何とか最低限の生活ができたほど、昔はものが貴重だったのです。

古着屋

古着の売買も大きな商売だった。江戸時代までの日本では、布はすべて手織だから、生産力が低く非常な貴重品でした。
 古着商の数は、享保8年の記録によれば、仲間つまり同業組合のメンバーだけで、1182軒という膨大な数だった。組合員以外にもかなりの業者がいたはずだから、主要産業といってもいいすぎではないでしょうか。
古着の店は固定店舗が多かったが、行商も発達していました。竹製の天秤にやはり竹製の独特の台をつけた竹馬という道具を女性の住民の多い長屋の近くなどに立てて、商品がよく見えるように掛けて売っていました。昔の絵を見ると、仕立てている古着だけではなく、解いた古布、端切れなども売っていたようです。
 伝統的な着物は、1反の布を同じ比率で無駄なく直線 ちしてあるから、古着でも古布でもすべて規格品でした。この点が、分解してしまえばほとんど商品価値のなくなる洋服とはまったく異質で、根本的にリサイクル構造になっていたのです。

傘の古骨買い

 今は、鉄とビニールでできた傘も、破れれば捨てるしかありませんが、江戸時代は、紙と竹でできた古傘でさえリサイクルの対象だったから、再生するため専門に買い集める業者がいました。
 買値は、傘の状態によって、四文、八文、十二文の三段階があったそうだが、これ以上の超オンボロ傘は再生不能だから燃やした方がお得、これ以上の価値があるのはまだ使えます、といったところなのでしょう。買値が中途半端な金額なのは、四文銭というコインが広く流通していたため、四の倍数になっているからです。
 古傘買いが買い集めた古傘は、専門の古傘問屋が集めて油紙をはがして洗い、糸を繕ってから傘貼りの下請けに出しました。時代劇には、裏長屋に住む浪人者が内職に傘を貼っている場面がしばしば出るが、あれは、ほとんどが古傘の再生だったのではないかと想像します。
 はがした油紙は、痛みの激しい部分には焚き付けにでもしただろうが、広い面積が使える部分は丁寧にはがして特殊な包装用に売ったと言うから、先祖たちのリサイクル精神はあきれるほど徹底していました。傘に貼ってあったから雨風にさらされて桐油の臭みは抜けていますが、まだ防水性が残っているので、用途によっては使えたのでしょう。

湯屋の木拾い

 テレビの時代劇の影響かどうか知りませんが、江戸時代は、いつも悪徳商人がばつこして物価上昇が続き、庶民は打ち壊し、つまり暴力革命に励んでいたように思っている人が多い。三百年近く続いた時代だから、そう言う時がなかったとは言わないが、一般的にいうなら、現代人には信じられないほど物価の安定していた時代でした。
 同時に、賃金も<安定>していて当時の江戸の中産階級だった一人前の大工の賃金が二倍になるのに、ほぼ二百年ぐらいかかっています。
 物価の指数の一つが湯銭つまり銭湯の入場料だが、江戸の湯銭は、百五十年以上も期間ね大人六文、子供四文のままだったから、江戸時代の大部分を通じて変わらなかったと言っていい。住民に対する衛生行政の一部として町奉行所が行政指導し、値上げさせられなかったからだが、もちろん、全体として物価が安定していたからこんなことができたのです。
 しかし、いくら安定していたといっても、これでは湯屋の経営は次第に苦しくなり、仕方がないから、湯屋の従業員は、ひまさえあれば、燃料費を節約するために町内や川筋などをせっせと拾い集めたのだから、ごみがなくて当然でした。

古樽買い

 昔は、液体容器の主流は樽で、酒の場合なら樽の所有権は酒屋にあるか、あるいは、<家樽>といって消費者の家に所属するか決まっていました。ところが、所有者のはっきりしない樽もあったから、その場合は中身がなくなると樽もいらなくなって、どうしても宙に浮いてしまいます。
 そういう古樽を専門に買い集める行商人がちゃんとあり、空き樽専門の問屋まであった。容器専門商社といったところで、日本橋の大通りにも空樽問屋があったほどだから、かなり大きな商売になっていたらしいです。
 今でも、ビール瓶や一升瓶は、回収ルートが出来ているが、樽の場合も似たような感覚でリサイクルさせていたようです。

行灯の仕替え

 関西では、古くなったりこわれたりした行灯を下取りして、新品を売る行商人がいました。下取りしたのも、焚き付けにするのではなく、もちろん、削ったり修理したりしてきれいにしてから、また再生品として売っていたようです。

箒売り(ほうきうり)

 箒売りの行商人は、新品の販売だけでなく、古いしゅろ箒の下取りをしました。古くなったしゅろは、まとめて植木用の縄やたわし用に売りました。なぜ古くなったしゅろに需要があったのかよく分かりませんが、新しいしゅろにまぜて使うと、一種の複合材料のようになって品質が良くなったのではないでしょうか。

取っけえべえ

 「取っけえべえ 取っけえべえ」と歌いながら歩く子供相手の行商人で古い金属製品が専門でした。
 江戸の庶民の子供たちは、、遊びながら古釘などを拾い集める子もいた。これを、簡単なおもちゃや飴などと交換していたのです。

灰買い

 すべての植物製品が行き着く最後の形である灰を残らず買い集めた灰買い人と灰屋こそ、究極のリサイクル業者でした!
 

 下駄の歯の入れ屋

 下駄の歯の部分は特に減るのが早く、磨り減った歯だけを交換できる
ようにした下駄がありました。ふつうの下駄より歯が薄く長めにできていて、磨り減れば、歯だけを抜いて新しいのに差替えられました。

 専門の職人が居て、巡回して来るのを待って注文すれば、その場で入
れ直してくれたものでした。

江戸のリサイクルの結果


植物資源の最後の形である灰。江戸では、この灰でさえ専門の灰集めがいてリサイクル(肥料に)していたのだから、驚きです。江戸では、ゴミやゴミを燃やした後の灰や排泄物が肥料に使うのだからゴミは、ほとんど無かったでしょう。(排泄物は江戸時代のもっとも重要な肥料でした特別な設備もエネルギーも不要、ただ集めるだけでチッソやリンを豊富に含んだ有機肥料を入手できたのです。江戸の住人たちによる排泄物生産量は、1人平均1年間に10荷でした)